LOGIN片膝をついた男を見下ろす経験など、一生ないと思っていた。
しかも、その男が鷹宮征臣なら、なおさらだ。 会場のざわめきは遠い。すぐ近くにあるのは、征臣の黒い髪と、私の左手に残る母の指輪の冷たさだけだった。 征臣はポケットから薄い封筒を取り出した。 白い封筒。封はされていない。中から出てきた書類の端に、鷹宮ホールディングスの名が小さく印字されている。 契約書、という文字が見えた。 膝をつく姿と契約書という文字が、どうしても同じ画面に収まらない。頭の奥が一拍遅れて、これは夢ではないのだと理解した。 膝をついていても、この人は御曹司ではなく企業人なのだ。プロポーズに花束ではなく契約書を出すあたり、噂よりだいぶ実務的というか、少しずれている。 笑える状況ではないのに、詰めていた息がかすかに漏れた。あまりにも場違いで、だからこそ現実に引き戻された。 「白鳥澪さん。君に提案がある」 征臣は、書類を両手で差し出した。 差し出し方は丁寧だった。けれど声は甘くない。低く、短く、逃げ道をふさぐような響きがある。 「俺と婚約してほしい」 莉々花が小さく声を漏らした。 悠真が彼女を見る。彼女は気づかない。 父の顔色が変わった。 「鷹宮君、悪い冗談はやめたまえ」 「冗談で、鷹宮の契約書を作らせるほど暇ではない」 「白鳥家には順序というものがある。勝手に割り込むな」 「その順序で、白鳥澪さんを押しのけた。見過ごす理由にはならない」 押しのけた。そんなはっきりした言葉を、誰かが私の代わりに口にしたことはなかった。白鳥家では、それにも別の名前がつく。調整。配慮。家族のため。角が立たないように。けれど征臣は、きれいな布をかぶせなかった。 父の頬がかすかに引きつる。彼は、私が傷ついたことではなく、傷つけた側として見られることを恐れていた。 父が言葉に詰まる。 それだけでは終わらなかった。 征臣は膝をついたまま、少し視線を父へ向けた。 「ここで起きたことは、鷹宮側でも残す。消したり、差し替えたりはしないでもらう」 父の眉が動いた。 「すべて?」 「席次表。司会進行表。招待客名簿。先ほどの発言。母君の形見に手を伸ばした場面。すべて含めてだ」 莉々花の指が、反射のように自分の胸元へ戻った。 さっきまで母の指輪へ伸びていた手だ。 その動きだけで、周囲の何人かが気づいた。彼女が何をしようとしていたのか。私が何を拒んだのか。 「鷹宮君、これは家同士の内々の話だ」 父の声が少し低くなる。 征臣は表情を変えなかった。 「内々で娘の婚約者を差し替える家と、今後も同じ条件で取引できるか。鷹宮として検討する」 会場の空気が、もう一段冷えた。 取引。 その言葉は、父にとって娘の涙より重い。 父の喉が動く。怒鳴りたいのに、怒鳴れない顔だった。白鳥家の体面を守るために私へ黙れと言った人が、今度は自分の体面のために黙っている。 その事実が、胸の底に小さな熱を落とした。 悠真が一歩、莉々花から離れた。 ほんの半歩だ。 けれど莉々花は気づいた。気づいて、慌てて彼の袖を掴む。 「悠真さん、違うの。私、本当にあなたのことも、大事で――」 も。 その一文字が、彼女自身を裏切った。 悠真の顔から、残っていた柔らかさが消えた。 「僕は……ついでだったのか」 莉々花の唇が震える。 「違う、違います。莉々花は、ただ……」 「ただ?」 私の声が出た。 思ったより静かだった。 莉々花の目がこちらへ向く。 私は母の指輪に触れた。奪われかけた輪は、まだ私の手にある。 「ただ、欲しいものを全部、私から取れば幸せになれると思っただけでしょう」 莉々花の涙が、そこでやっと落ちた。遅い涙だった。人に見せるための涙は、落ちる場所を選ぶ。今の涙は、私を悪者にするためではなく、自分が言い返せないことへの悔しさで滲んだものに見えた。 「だって、お姉様は何でも持っていたじゃない。黙っていても、本物みたいな顔ができるんだもの」 莉々花の声が、ほんの少しだけ素に戻った。甘さの下から、湿った棘が出る。 「お母様も、部屋も、悠真さんとの婚約も、みんな最初からお姉様のものだった。莉々花は、少し分けてほしかっただけ。なのに、どうして全部だめなの?」 少し。母の指輪に手を伸ばした指で、少しと言う。その言葉に、会場の空気がまた変わった。 会場が静まり返った。 言ってしまった。 けれど、不思議と後悔はなかった。 父が低く唸る。 「澪、言葉を慎め。今すぐだ」 「慎んできました。今までずっと」 声が低くなった。 「ケーキの苺も、発表会のドレスも、母の部屋のカーテンも、全部。慎んで、譲って、黙ってきました」 莉々花の目に涙が浮かぶ。 今度の涙は、少し遅かった。 「でも、婚約者も、母の指輪も、母の名前も、もう譲りません。ここから先は、私のものだから」 指輪に触れていた手を離す。 征臣はまだ、書類を差し出したまま待っている。 私は書類を見た。 婚約契約に関する基本合意書。 そんな固い文字が並んでいるのに、最下部の署名欄だけが空白だった。 私の名前も、征臣の名前も、まだどこにも書かれていない。 「どうして、私なんですか。可哀想だったから、なら受け取れません」 質問は、思ったより静かに出た。 助けに来た、というには準備が良すぎる。偶然通りかかったというには、契約書が白々しい。私を可哀想だと思っただけなら、もっと簡単な助け方があったはずだ。 征臣の目が、かすかに細くなる。 嘘を探しているのではなく、どこまで言うかを選んでいる目だった。 「理由については、今はまだ話せない」 「……話せない?」 「ただ一つ言える。俺には、この場で手を引く理由がない」 その言葉が、ひどく重く落ちた。 可哀想だからではない。助けてやる、でもない。征臣の声には、憐れみよりも、何かを選び取る時の冷静さがあった。 「同情で差し出す契約なら、ここまで準備しない」 征臣の視線が、私の左手へ落ちた。 「それに、君はその指輪を手放さなかった。奪われそうになっても、自分で止めた」 言い終えると、征臣は封筒を持っていない方の手を、もう一度だけ差し出した。 「触れても?」 問いかけが先に来たことに、私は一瞬、返事を失った。 「……はい」 征臣は私の左手を取った。力はほとんど入っていない。ただ、指輪を見せてほしいと頼むような触れ方だった。 その時、彼の袖口から銀のカフスボタンがのぞいた。 黒い石を囲むように刻まれた、小さな紋章。 見覚えがあった。 母の指輪の内側。光を斜めに当てないと見えないほど細く彫られていた、あの印と寸分違わない。 息が、浅くなる。 どうして。 どうして鷹宮征臣のカフスに、母の指輪と同じ紋章があるのか。 問いは喉まで来た。けれど、会場の真ん中でその名前を出した瞬間、母の遺したものまで誰かに踏まれる気がして、飲み込んだ。 莉々花が震える声を出した。 「鷹宮様、どうして……私は、ずっと」 「白鳥莉々花さん」 征臣は初めて莉々花を正面から見た。 見た、というより、書類の一部を確認するような目だった。 「あなたの話は、後で聞く」 「後で……?」 「今は、彼女の返事を待っている」 彼女。 その一言で、莉々花の顔から色が抜けた。 私の返事。 今日、初めて誰かがそれを待っている。 父は待たなかった。悠真も待たなかった。瀬里奈さんも、莉々花も、私がいつものように頷く前提で話を進めた。 征臣だけが、紙を差し出したまま動かない。 「これは命令ですか。それとも、提案ですか」 「提案だ。君が嫌なら、ここで終わる」 「利用じゃ、ないんですか」 征臣の指が、封筒の端を押さえた。 さっき見たカフスが、もう一度照明を返した。そこに刻まれた紋章を、私は見ないふりをした。 「利用だと思うなら、ここで破っていい」 会場がまた揺れた。 破っていい契約書を、跪いて差し出す人がいるのか。いるらしい。目の前に。 「今日ここで署名しなくていい。返事は、今じゃなくていい」 征臣は、私を見上げたまま言った。 「君が選べ」 空白の署名欄が、私の指先のすぐ下で白く残っていた。名字も名前も、まだそこにあった。 私は封筒を手に取った。 紙が少し冷たい。 征臣の手がわずかに動いた。私はそれを見てから、自分で封を切った。 中から出てきた書面の一行目に、出席要請の文字があった。 その下に、申立人の欄が空白のまま残されていた。 久我山麗子の文面は、短かった。 余計な慰めも、怒りもない。 白鳥家関連寄付金および白鳥澪氏の出生疑義に関する公開聴聞を、第三者委員会準備手続きとして実施する。出席の意思がある場合は、申立人欄に本人署名のうえ、証拠目録を添えて提出されたい。 たったそれだけ。 でも、これまで私に向けられたどの言葉よりも、まっすぐだった。 可哀想だとも、守ってあげるとも書いていない。証拠で話せ、と言われている。 母なら、少し笑ったかもしれない。 澪、泣くのはあとで。先にページ番号を確認しなさい。 そんな声が聞こえた気がして、心のどこかが変に熱くなった。 私は証拠目録の用紙を広げた。 母の帳簿。 港町の紅茶缶から出た写し。 未送信メール。 内容証明の控え。 投薬記録。 戸籍画像の不審点。 項目の横に、日付と保管場所を書き足していく。母の資料は、感情ではなく順番で私をここまで連れてきた。 だから最後まで同じやり方で並べる。申立人欄へ戻るのは、そのあとだ。その順番だけは誰にも決めさせない。 書けるものは多い。けれど、書くたびに、母が一人で持っていた重さが指に移ってくる。 ペン先が紙に引っかかった。「一度、休んだ方がいい」 征臣が言った。 征臣の声は低かったが、書類には手を伸ばさなかった。「止めたら、書けなくなりそうです」 言ったあと、ペンを握る指へ余計に力が入った。 征臣は私の手元を見た。「書類には触れない。水だけ持ってくる」「……お願いします」 返事をして、申立人欄の上に手を置いた。 白鳥澪。
私は本文の続きを読んだ。 白鳥家側は、近日中に戸籍資料を提示する意向だという。 画面の白さが、急に紙のように見えた。 紙は、いつも誰かの都合で私の立場を書き換えてきた。席次表。契約書。診断書。告発状。 今度は、戸籍。 記事の最後に、小さく添えられた写真があった。 写真の中の涙は、誰に落ちるためのものなのだろう。父か、瀬里奈さんか、世間か。画面越しの涙なのに、昔と同じ甘い匂いがする気がした。 画面を伏せれば、その間だけは楽になれる。けれど、莉々花の涙だけが事実として残り、私の戸籍だけが疑われる。それを征臣に処理させて待つつもりはなかった。 ぼかされた書面の端に、白鳥家の家印らしい赤い影が滲んでいた。 画面越しでも、彼女の肩は小さく震えていた。けれど、その震え方を私は知っている。泣き慣れた人の、崩れないための震えだった。 記事の下には、短い動画が埋め込まれていた。 莉々花はカメラの前で泣いていた。話の切れ目ごとに画面の脇へ目が動く。そこに何があるのかは映っていない。鏡か、スタッフか。私は動画を一度止めた。『お姉様が、私の戸籍まで奪おうとしているんです』 震える声。けれど、画面の隅で、配信前に置かれた照明だけが妙に明るかった。 コメントが流れる。 妹さん可哀想。 姉の方が本当は偽物なんじゃない? 御曹司を捕まえたら、次は戸籍か。 胃の奥が冷えた。涙は、ここまで人の名前を汚せるのか。 東京に戻ったのは、その日の夕方だった。 雨は降っていなかったのに、車の窓には細かい水滴が残っていた。港の湿気をそのまま連れて帰ってきたみたいで、少し気持ちが悪い。 鷹宮邸の会議室には、顧問弁護士の相沢が待っていた。銀縁の眼鏡をかけた、声の小さい男性だ。書類を机に置く手つきは正確で、紙の角がすべて同じ方向を向いている。「記事に出ている画像ですが、正式な戸籍謄本そのものではありません」 相沢は一枚のプリントをこちらへ向けた。 拡大された画像の端に、薄い線が走っている。コピー機の影かと思った。けれど、相沢はそ
「どうぞ。鍵は開いています」 扉が開く。 征臣の手には、タブレットがあった。画面は伏せられている。 悪い知らせだと、見ただけで分かった。彼は本当に隠すのが下手になった。「東京で記事が出た」「白鳥家ですか」「おそらく」 彼はそこで言葉を止めた。 以前なら、対策まで一息に話したはずだ。 征臣は画面を伏せたまま、こちらを見た。 私はタブレットを受け取った。 指先の包帯が、画面の端に触れる。 ニュースサイトの見出しは大きかった。 白鳥家長女に出生疑惑。 その下に、莉々花が涙を浮かべている写真が貼られていた。 私はしばらく、その涙の角度を見ていた。「もう、何か考えていますね」 征臣は答えず、タブレットを差し出した。「今は、言わないでください」 征臣はタブレットから手を離し、椅子を一つ離して座った。画面を覗き込むことも、先に記事を要約することもしない。 スクロールする指が止まっても、続きを促す声はなかった。私が自分で読む速度に合わせて、ただ待っている。 私は画面へ目を戻した。 泣く前に鏡を見る妹の顔だった。 涙は頬の中央を通り、睫毛は濡れているのに目元の化粧は崩れていない。見る人が続きを想像できるよう、唇だけがわずかに開いていた。 小学校の発表会で私の髪飾りを壊したときも、父の前では右頬だけを見せて泣いた。右側から見ると、莉々花は一番可哀想に見える。父はその顔に弱かった。 記事の本文を、指で送る。 白鳥家関係者によれば、長女とされてきた白鳥澪氏には出生に関する重大な疑義があるという。 長女とされてきた。 その五文字に、指が止まった。 征臣の指が端末の横まで来て、止まった。 画面は伏せない。 私は震える手で端末を持ち直した。「見せてください。……怖いけど、あとで知る方が嫌です」 声が硬くなった。「何をされてるのか分からないままは、もう無理です」
その気遣いが、少し痛い。「もう疑っています」 言葉は、はっきり出た。 自分で驚く。「ただ、まだ娘でもあるんです」 言った瞬間、息が詰まった。 白鳥家で、父に名前を呼ばれた記憶は少ない。たいていは、お前。姉だろう。白鳥家のために。そんな言葉ばかりだった。 それでも、幼い頃に一度だけ、熱を出した私の枕元に水を置いた手を覚えている。母が部屋を離れていたほんの短い時間、父が無言でコップを置いた。優しい言葉はなかった。けれど、あの水の冷たさだけを、なぜか忘れられない。 そんな小さな記憶が、今になって邪魔をする。 父を疑うなら、あの日のコップまで偽物にしなければならない気がした。 私は母の帳簿に手を置いた。 紙の角が、包帯の端に触れる。「でも、娘だからって、ここで閉じたくありません」 征臣は何も言わなかった。 今はそれでよかった。肯定されても、励まされても、たぶん苦しかった。「父の名前が出ても、この帳簿は最後まで読みます」 声は揺れなかった。 揺れないことが、逆に悲しい。 征臣が机の向こうで、小さく頭を下げた。命令でも、約束でもない。聞いた、という仕草だった。「読み終わるまで、誰にも邪魔させない」 それだけ言った。 大丈夫だとは言わなかった。 勝てるとも言わなかった。 守ろうとしたのは、私そのものではなく、私が読み終えるまでの時間だった。 その違いを、彼は多分、選んだ。 診療所の窓の外で、港の風が看板を揺らした。 父の署名は、診療所の薄い光の下で妙に平然としていた。そこに並ぶ名字を見て、呼吸の通り道が狭くなる。 水を飲めば少し楽になると分かっていた。でも私はグラスに手を伸ばさず、父の署名だけを見ていた。 私は母の帳簿を開き直した。 征臣は本当に、私が読み終えるまで部屋へ戻ってこなかった。 診療所の小さな処置室に、私と帳簿とパソコンだけを残し、彼は廊下へ出た。扉は閉めきらない。拳一つ分だけ開いている。呼べば届く距離。入
空白のメールを開くまでに、少し時間がかかった。 画面の白さが怖かった。そこに何が書かれていても、もう母に聞き返すことはできない。 征臣は隣に立っていたが、催促しなかった。 私はマウスに手を置いた。包帯の端が、指の付け根で少し擦れる。痛みがある方が、まだ現実にいられる。 本文は、短かった。 澪だけは、あの家から出して。 それだけだった。母らしい丁寧な前置きも、数字も、事情の説明もない。保存された下書きの中で、その一文だけが剥き出しになっている。 私は画面を見つめたまま、瞬きを忘れた。 母は私を置いていったのだと思っていた。病室の白いシーツの中で、私だけを白鳥家に残して、行ってしまったのだと。そんなことを思う自分が嫌で、ずっと蓋をしていた。 母は私を置いていったのではなく、あの家から出そうとしていた。 視界がにじんだ。泣きたくないと思った瞬間、もう遅かった。涙は落ちない。目の奥で熱くたまるだけで、落ちる場所を探している。「……これ、誰に送るつもりだったんでしょう」 聞きたかったのは宛先のことだけではなかった。けれど、それ以上の言葉は出なかった。 征臣の足が一度動き、止まる。 今は、その距離に助けられた。 二十二にもなって、母に捨てられていなかったと確かめたがる自分がいた。 認めたくはなかったが、胸の奥に残っていた痛みは、ずっとその答えを待っていた。 征臣は黙ったまま、机の上へ視線を落としていた。 私が机の上のペンを取ろうとして、指が滑った。 黒いペンが床に落ちる。 征臣は拾わなかった。私が手を伸ばすまで、足を動かさない。その待ち方が、今はありがたくて、少し悔しかった。 乾いた音が、処置室の白い床に転がった。 私はすぐには拾えなかった。 遅れて、腹の底が熱くなった。母は逃がそうとしてくれていた。ならば、あの家に残った私は、どれだけの嘘の中で黙らされていたのだろう。 画面の中で、母の一文だけが光っていた。 しばらくして、私は自分でしゃがんだ。
画面に並ぶ二つの宛先を一つずつ追った。告発状は完成し、添付ファイルも揃っている。それでも、送信日時だけが空白だった。 メールの下書きには、添付予定のファイル名が残っていた。 内容証明案。送金一覧。診療記録照合表。寄付金流用疑義。 母の生活感とは違う、硬い名前ばかりだった。けれど、ファイルの並びには妙な几帳面さがある。日付順。相手先別。修正済みのものには小さく済とつけてある。 母らしい、と思った。 台所の保存容器にも、あの人は同じように日付を書いた。冷蔵庫の中の味噌まで、いつ開けたものか分かるようにしていた。あの癖が、こんな場所にも残っている。 私はファイルを一つ開いた。 内容証明郵便の差出記録。 画面の中ほどで、指が止まる。「差し止め……」 発送直前、代理人による受領扱い。 その下に、署名の画像が貼られていた。 白鳥清隆。 父の名前だった。 画面の白さだけが、目に痛かった。 瞬きをしても消えない。 胸の中が一瞬で静かになる。驚きも怒りも、すぐには来ない。ただ、耳の奥で診療所の蛍光灯が低く鳴っていた。 私は画面に近づいた。 筆跡は見慣れている。白鳥家の書類に何度も代筆させられたから、父がどう線を払うかまで覚えている。 白の最後が、少し跳ねる。 鳥の横線は、いつも右下がりになる。 同じだった。「父が、受け取ったんですね」 口にしたはずの声が、遠くから聞こえた。 征臣は画面を見ていた。否定しない。慰めもしない。「書類上は、そう見える」 慎重な言い方だった。 断定しないのは、私のためではない。証拠のためだ。分かっている。分かっているのに、今だけは少し腹立たしかった。「そう見える、というだけですか」「澪」「まだ決めつけられない。……頭では、そう思っています」 言ったあと、唇を噛みそうになった。八つ当たりだ。 征臣は受け止めたまま、黙って







