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第4話 君が選べ

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-07-02 00:57:42

 片膝をついた男を見下ろす経験など、一生ないと思っていた。

 しかも、その男が鷹宮征臣なら、なおさらだ。

 会場のざわめきは遠い。すぐ近くにあるのは、征臣の黒い髪と、私の左手に残る母の指輪の冷たさだけだった。

 征臣はポケットから薄い封筒を取り出した。

 白い封筒。封はされていない。中から出てきた書類の端に、鷹宮ホールディングスの名が小さく印字されている。

 契約書、という文字が見えた。

 膝をつく姿と契約書という文字が、どうしても同じ画面に収まらない。頭の奥が一拍遅れて、これは夢ではないのだと理解した。

 膝をついていても、この人は御曹司ではなく企業人なのだ。プロポーズに花束ではなく契約書を出すあたり、噂よりだいぶ実務的というか、少しずれている。

 笑える状況ではないのに、詰めていた息がかすかに漏れた。あまりにも場違いで、だからこそ現実に引き戻された。

「白鳥澪さん。君に提案がある」

 征臣は、書類を両手で差し出した。

 差し出し方は丁寧だった。けれど声は甘くない。低く、短く、逃げ道をふさぐような響きがある。

「俺と婚約してほしい」

 莉々花が小さく声を漏らした。

 悠真が彼女を見る。彼女は気づかない。

 父の顔色が変わった。

「鷹宮君、悪い冗談はやめたまえ」

「冗談で、鷹宮の契約書を作らせるほど暇ではない」

「白鳥家には順序というものがある。勝手に割り込むな」

「その順序で、白鳥澪さんを押しのけた。見過ごす理由にはならない」

 押しのけた。そんなはっきりした言葉を、誰かが私の代わりに口にしたことはなかった。白鳥家では、それにも別の名前がつく。調整。配慮。家族のため。角が立たないように。けれど征臣は、きれいな布をかぶせなかった。

 父の頬がかすかに引きつる。彼は、私が傷ついたことではなく、傷つけた側として見られることを恐れていた。

 父が言葉に詰まる。

 それだけでは終わらなかった。

 征臣は膝をついたまま、少し視線を父へ向けた。

「ここで起きたことは、鷹宮側でも残す。消したり、差し替えたりはしないでもらう」

 父の眉が動いた。

「すべて?」

「席次表。司会進行表。招待客名簿。先ほどの発言。母君の形見に手を伸ばした場面。すべて含めてだ」

 莉々花の指が、反射のように自分の胸元へ戻った。

 さっきまで母の指輪へ伸びていた手だ。

 その動きだけで、周囲の何人かが気づいた。彼女が何をしようとしていたのか。私が何を拒んだのか。

「鷹宮君、これは家同士の内々の話だ」

 父の声が少し低くなる。

 征臣は表情を変えなかった。

「内々で娘の婚約者を差し替える家と、今後も同じ条件で取引できるか。鷹宮として検討する」

 会場の空気が、もう一段冷えた。

 取引。

 その言葉は、父にとって娘の涙より重い。

 父の喉が動く。怒鳴りたいのに、怒鳴れない顔だった。白鳥家の体面を守るために私へ黙れと言った人が、今度は自分の体面のために黙っている。

 その事実が、胸の底に小さな熱を落とした。

 悠真が一歩、莉々花から離れた。

 ほんの半歩だ。

 けれど莉々花は気づいた。気づいて、慌てて彼の袖を掴む。

「悠真さん、違うの。私、本当にあなたのことも、大事で――」

 も。

 その一文字が、彼女自身を裏切った。

 悠真の顔から、残っていた柔らかさが消えた。

「僕は……ついでだったのか」

 莉々花の唇が震える。

「違う、違います。莉々花は、ただ……」

「ただ?」

 私の声が出た。

 思ったより静かだった。

 莉々花の目がこちらへ向く。

 私は母の指輪に触れた。奪われかけた輪は、まだ私の手にある。

「ただ、欲しいものを全部、私から取れば幸せになれると思っただけでしょう」

 莉々花の涙が、そこでやっと落ちた。遅い涙だった。人に見せるための涙は、落ちる場所を選ぶ。今の涙は、私を悪者にするためではなく、自分が言い返せないことへの悔しさで滲んだものに見えた。

「だって、お姉様は何でも持っていたじゃない。黙っていても、本物みたいな顔ができるんだもの」

 莉々花の声が、ほんの少しだけ素に戻った。甘さの下から、湿った棘が出る。

「お母様も、部屋も、悠真さんとの婚約も、みんな最初からお姉様のものだった。莉々花は、少し分けてほしかっただけ。なのに、どうして全部だめなの?」

 少し。母の指輪に手を伸ばした指で、少しと言う。その言葉に、会場の空気がまた変わった。

 会場が静まり返った。

 言ってしまった。

 けれど、不思議と後悔はなかった。

 父が低く唸る。

「澪、言葉を慎め。今すぐだ」

「慎んできました。今までずっと」

 声が低くなった。

「ケーキの苺も、発表会のドレスも、母の部屋のカーテンも、全部。慎んで、譲って、黙ってきました」

 莉々花の目に涙が浮かぶ。

 今度の涙は、少し遅かった。

「でも、婚約者も、母の指輪も、母の名前も、もう譲りません。ここから先は、私のものだから」

 指輪に触れていた手を離す。

 征臣はまだ、書類を差し出したまま待っている。

 私は書類を見た。

 婚約契約に関する基本合意書。

 そんな固い文字が並んでいるのに、最下部の署名欄だけが空白だった。

 私の名前も、征臣の名前も、まだどこにも書かれていない。

「どうして、私なんですか。可哀想だったから、なら受け取れません」

 質問は、思ったより静かに出た。

 助けに来た、というには準備が良すぎる。偶然通りかかったというには、契約書が白々しい。私を可哀想だと思っただけなら、もっと簡単な助け方があったはずだ。

 征臣の目が、かすかに細くなる。

 嘘を探しているのではなく、どこまで言うかを選んでいる目だった。

「理由については、今はまだ話せない」

「……話せない?」

「ただ一つ言える。俺には、この場で手を引く理由がない」

 その言葉が、ひどく重く落ちた。

 可哀想だからではない。助けてやる、でもない。征臣の声には、憐れみよりも、何かを選び取る時の冷静さがあった。

「同情で差し出す契約なら、ここまで準備しない」

 征臣の視線が、私の左手へ落ちた。

「それに、君はその指輪を手放さなかった。奪われそうになっても、自分で止めた」

 言い終えると、征臣は封筒を持っていない方の手を、もう一度だけ差し出した。

「触れても?」

 問いかけが先に来たことに、私は一瞬、返事を失った。

「……はい」

 征臣は私の左手を取った。力はほとんど入っていない。ただ、指輪を見せてほしいと頼むような触れ方だった。

 その時、彼の袖口から銀のカフスボタンがのぞいた。

 黒い石を囲むように刻まれた、小さな紋章。

 見覚えがあった。

 母の指輪の内側。光を斜めに当てないと見えないほど細く彫られていた、あの印と寸分違わない。

 息が、浅くなる。

 どうして。

 どうして鷹宮征臣のカフスに、母の指輪と同じ紋章があるのか。

 問いは喉まで来た。けれど、会場の真ん中でその名前を出した瞬間、母の遺したものまで誰かに踏まれる気がして、飲み込んだ。

 莉々花が震える声を出した。

「鷹宮様、どうして……私は、ずっと」

「白鳥莉々花さん」

 征臣は初めて莉々花を正面から見た。

 見た、というより、書類の一部を確認するような目だった。

「あなたの話は、後で聞く」

「後で……?」

「今は、彼女の返事を待っている」

 彼女。

 その一言で、莉々花の顔から色が抜けた。

 私の返事。

 今日、初めて誰かがそれを待っている。

 父は待たなかった。悠真も待たなかった。瀬里奈さんも、莉々花も、私がいつものように頷く前提で話を進めた。

 征臣だけが、紙を差し出したまま動かない。

「これは命令ですか。それとも、提案ですか」

「提案だ。君が嫌なら、ここで終わる」

「利用じゃ、ないんですか」

 征臣の指が、封筒の端を押さえた。

 さっき見たカフスが、もう一度照明を返した。そこに刻まれた紋章を、私は見ないふりをした。

「利用だと思うなら、ここで破っていい」

 会場がまた揺れた。

 破っていい契約書を、跪いて差し出す人がいるのか。いるらしい。目の前に。

「今日ここで署名しなくていい。返事は、今じゃなくていい」

 征臣は、私を見上げたまま言った。

「君が選べ」

 空白の署名欄が、私の指先のすぐ下で白く残っていた。

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